数々の不定愁訴を乗り越え地域のママへの“伝え人” に変わった私― 助産師のひと言が私と子どもの人生を変えた ①

仮死で生まれた私。普通の子どもではあるけれど、スッキリしない心身の不調を抱えながら育ちました。小児喘息・摂食障害・椎間板ヘルニアなど、病名は挙がるも“病気以上健康未満”の状態。“快活・元気な私” を夢見て、10年運動部で鍛え、海外生活も経験。その後、大企業の総合職として就職。

しかし、体調は依然モヤモヤ。「結局は体質」と諦めたまま第1子を妊娠した途端、悪阻で休職、25週で切迫早産、自宅安静。産後も泣き止まない我が子に四苦八苦。そのときに、骨盤ケア・まるまる育児に出会い、体調は年々快方に向かい、第2・3子のときには順調な妊娠~育児を経験しました。

「数々の不定愁訴は“姿勢” が関係しているのでは」と考えるようになった私は、2年前に地域の母子への“伝え人” を志しセラピストとして開業。多数の母子が来室する中、感じるのは「母子ともにツライ状態に陥ってからでは遅い!医療者ではない私の言葉だけでは伝わりきらない。」

人の認知・行動は、誰に出会いどんな言葉をもらうかによって変わります。妊娠~育児中の助産師のひと言の価値は絶大です。

今こそ、全ての職業人が母子の健康増進を目指し、協力し合うべきときではないでしょうか?

 

Ⅰ.生い立ち

1.仮死出生、病弱だった幼少期

1986(昭和61)年、京都にて誕生。母は大の運動嫌い。第1子妊娠中に20kg体重増、妊娠高血圧症候群・骨盤位となったが、「帝王切開ではなくて壮絶なお産だった」と言う。第2子である私を妊娠中の母は、少しばかり食事に気をつけたそうだが、さらに体重増。頭位の自然分娩で仮死。すぐに総合病院へ搬送され10日間入院。 医師からは「障害が残るかもしれない」と言われたが、乳児の頃はほとんど泣きも笑いもせず、反応も鈍かったようで、その頃の写真はしかめっ面ばかり(図1)。

図1
図1

 

2歳年上の兄は生まれたときからギャン泣きでヤンチャ。その兄から守るために、私は高い平たいベッドで寝かされ、首すわり前からおんぶされ、歩行器に入れられて育った。ろくにハイハイもしないまま10カ月で歩き始め、受け身が取れず転んでは額や顎をケガしてばかり(図2)。言葉も遅く3歳近くになっても赤と青の区別がつかず「やはり障害かな?」と母は心配したらしい。

図2
図2

 

兄は兄で目を離したらどこかへすぐに消えてしまい、幼稚園でも1人だけ大暴れ。「何かうちの子達、おかしいのでは」と思っても、幼稚園では「こんな子もたまにいる」。助産婦・保健婦に相談しても「様子を見ましょう」と取り合ってくれず、納得いかない気持ちを「これがこの子達の個性。このまま育てていくしかない」と抑えるだけ。

私が幼稚園に上がる頃には、兄と同様に喘息発作をしばしば起こすようになり、病院が休みの日は救急病院へ。「なぜ、うちの子だけこんなに大変?」と母は自問自答しながらの日々を送ったという。水泳を始めてから喘息は改善したが、引っ込み思案で運動嫌いの私はすぐに辞めてしまい、外遊びもあまりせず、静かにお人形で遊んでいるタイプだった。

6歳の頃、足の痛みに襲われ、何度も総合病院で検査を受けるも原因不明。「膠原病かもしれ
ない」と言われたが、いつの間にか痛まなくなりウヤムヤになった。