数々の不定愁訴を乗り越え地域のママへの“伝え人” に変わった私― 助産師のひと言が私と子どもの人生を変えた ②

2.運動不足の小学生時代

小学4年生になってもスキップができなかった兄は、交通事故で他界。横断歩道で赤信号に気付かず渡り、引き返したところだった。その後、事故が心配な祖父は、私を小学2年生から毎日車で送迎。中学受験で塾通いも始めたため、運動の機会はほぼゼロ。

50m走は10秒台、長距離走も遅い方で、マット運動や球技などは怖くてできない。なのに、自分自身では「運動が苦手」という意識がなかった。それは、「真衣は器用でバランス感覚がいい。それに比べてお兄ちゃんは…」と育てられたから。

同様に「肌が弱いから。便秘体質だから」などと判を押され、それが自分のスタンダードであり、「これくらいの不調は何でもない。これくらい我慢するのが世間の常識」と認識するようになった。親の決めつけというのは罪だ。

兄の事故以降、私は立ち眩みや目の奥の痛みに悩まされるようになった。度々嘔吐もするようになり、満腹感がなく、食べ過ぎと気付いたときには吐いてしまっていた。

 

3.バレーボールに打ち込んだ中学時代

中学生になり突然私はバレーボール部へ途中入部。予想以上にスパルタな部活。だが、小学校時代に怠けまくった体は急には動かず、練習しても上達しない。

挙句の果てに試合で顔面レシーブを繰り返し、後輩にスタメンを奪われ、泣いて顧問に訴えるという恥ずかしい私。しかし、本人は「思ったようにできないのはなぜ?」と、至って大真面目。諦めるのではなく、「練習が足りない!」と思った私は、試行錯誤しながら自主練や走り込みを繰り返した。

その努力が実を結んだのか、バレーボールの上達はみられないが、持久走だけは学年でも1・2位を争えるようになった。「人とは歩みは違うが、努力は必ず実を結ぶ」という勘違いが悲劇を生むことになる。

 

4.腰痛と戦った高校時代

懲りない私は中学での雪辱を誓い、高校でもバレーボール部を続けた。チームは弱小ながら中学以上に強豪校並みの練習量。人数が集まらない3年生の試合に、いきなり1年生を投入するため、春休みから合宿開始。

そんなある日、急に腰が動かなくなってしまった。病院に行くと「椎間板ヘルニア」「オーバーワーク。安静に」と。医師の指示を忠実に守り、体を休めて腰にはコルセット、腰痛改善の筋トレ→悪化→リハビリ…のエンドレスループにはまった。

「本当にオーバーワーク? 同じ練習量でも、負傷をするどころかどんどん逞しくなり、技術も進歩する人がいるではないか」。疑問が消えないままキャプテンになった私は、もう休んでいられず、ブロック注射を打ちながら、練習・試合に打ち込んだ。頑張れば頑張るほど体が壊れていくフラストレーション。何のトラブルもなく上達していく人達を、羨望の眼差しで眺めていた。

過食・嘔吐も治まることなく、イライラしたり落ち込んだり。この頃から月経痛が酷くなり、おりものの量も増え、シートが手放せず、婦人科にかかると卵巣嚢腫の診断とピルの処方。「こんなことがあるのかな?」と周りに聞いてみると、ピルを飲んでいる高校生も少なくなく「そんなものか」と思ったのを覚えている。「思い通りに動ける体を得るために払った代償と、得たものって何だったのか?」と思い悩む青春であった。